11月の法話 杞憂(きゆう)/新実信導

 ある日、家の戸締まりを任されて出かけることになった。家の留守をたのんで出かけるのと、自分が最後に確認して出かけるのでは天と地ほど違うことに改めて気がついた。

 ガスの元栓は閉めたか、石油ストーブは消したか、部屋の電気は消したか、これらを確認し、最後に施錠をして出かける。出かけて間もなくストーブの火を消したかどうか確認をするために戻ることもしばしばであった。出かけていても自分の不注意が元で火事でも起こしはしないか心配になる。家に帰って何事もなくてホッとした。すべてを確認して出かけることはこんなに大変であったのかと、留守番がいることの有り難さを痛切に感じた。

 中国古典『列子』に「杞憂」という寓話がある。

 杞の国のある男が、天が落ちてきて地が崩れはしないかと心配し、食事ものどを通らず、夜も眠れずにいた。それを心配した友人が「天は気が固まってできたもので、天が落ちてくることはない」といって安心させた。しかし男は、「太陽や月や星が落ちてくることはないだろうか」とまた心配する。すると友人は「太陽も月も星も気の中の輝きを放っているものに過ぎないから、落ちてきても怪我はしない」と説明して男は安心した。杞国の人が憂いて心配したことから、「無用の心配」を杞憂という。

 この杞憂の話からも知れるように本当に安心はあるのだろうか。何時何か起こるか判らないから心配が尽きないのである。このような不透明な世の中でも、この世を見通すことができるのが法華経なのである。

 日蓮大聖人は、「お釈迦様のお説きになられた教えは明鏡であり、その中でも法華経は神鏡である。銅鏡は人の顔を映すが心を映すことはできない。法華経の神鏡は人の姿を映すだけでなく、その心までも映す」(『神国王御書』)と私たちに示されている。法華経を信仰することで心が安心を得られ、災いも転じることができる。必ずや杞憂からも開放されるであろう。