11月の法話 慈悲はここにある/相川大輔


 先日、ジェット・リー主演の映画『海洋天堂』を観た。ジェット・リーといえばカンフーアクションの代名詞であるが、その印象からは程遠い、自閉症の息子を持つ父親というシリアスな役を演じている。

 重度の自閉症である二十一歳の息子の父親が、ある日、自分が末期ガンであり先が長くないことを知る。

 息子の行く末を悲観した彼は海で心中を図るが息子の抵抗により失敗する。その後彼は、息子を受け入れてもらえる施設を探すことに奔走しながら、日常生活に必要なことを根気よく死の直前まで息子に教えていき、結果、息子は父親の勤め先であった水族館の掃除夫として生活していくことができるようになる。

 この映画で注目すべきなのは、父親の息子を見つめる視点の変化である。心中を図った時には自分の主観のみで息子を見ており「かわいそう」「将来一人で生きていけるだろうか」などと感情的になってしまっている。しかし、心中失敗後の父親の一連の行動は、息子の立場に立って問題の解決を図ろうとしている。つまり、どうすれば息子がこの世界で幸せに生きていけるかを考えて行動しているのだ。

 そして最も心を揺さぶられた父親の行動は、勤め先の水族館の水槽を息子と二人で泳ぎながら「いいか、父さんはウミガメだ!父さんはウミガメだからな!」と懸命に、自分なき後、息子が自分の存在を感じることができるように、自分とウミガメを重ねて見ることを教えたことだ。父なき後水槽でウミガメの背中を追い、そしてウミガメを抱きしめた時の息子の表情の何と穏やかだったことか!

 お釈迦様の慈悲とは、きっとこの父親の息子に対する愛情のようなものではないだろうか。

 私たちもまた、この息子のように心から願うのならば、いつでもお釈迦様の慈悲に触れることができるだろう。なぜならば、お釈迦さまは常にここにいて私たちを待っていて下さっているのだから。