5月の法話 千の風になって/倉橋観隆

厳しかった冬もいつしか過ぎ、緑はまばゆく、頬をなでる風も優しい季節となりました。風というと近頃大ヒットした『千の風になって』という歌を思い浮かべます。

私のお墓の前で泣かないで下さい
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を吹きわたっています 

この歌が人々に感動を与えたのは、愛しい人の死を前にして、その人はこの世からいなくなったのではなく、姿を変えてあなたのそばに今でもいるよ、という死者からのメッセージが込められていたからではないでしょうか。

私はこの曲を聞いた時お自我偈の一節が浮かびました。
「衆生を度せんが為の故に、方便して涅槃を現ず。而も実には滅度せず~一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず。時に我及び衆僧、倶に霊鷲山に出づ」

私(お釈迦様)は本当は死んではいない、今も生き続けている。衆生を教え導く為に見えなくしただけで一心に私の姿を見ようとしたなら、いつもそばにいる事に気付くであろう。

毎日読んでいるお経がこの歌に触れて、改めてズシリと心に響きました。この教えは一人お釈迦様の命が永遠であるばかりでなく、私達衆生の命も永遠であると説いているのです。つまり、私達は死んでおしまいではなく、死んでも生き続ける命があるということなのです。この命とは、これからは姿、形を変えて生き続けるということです。

『千の風』の言葉を借りれば「朝は鳥になってあなたを目覚めさせる 夜は星になってあなたを見守る」のです。この気持ちを言い換えれば、亡くなった人の生き様が遺された人々を支える教えとなって心に生き続けていくことなのです。こんな言葉があります。

「老いて後思い知るこそ悲しけれ この世にあらぬ親の恵に」

よくよく噛みしめてみたいものです。