11月の法話 染められ易きもの/倉橋観隆

P1050500 ある日お釈迦様とお弟子のアナン様が街へ托鉢に出られました。するとお二人の前に一本の古びた縄が落ちていました。「あの縄を拾ってきなさい」お釈迦様に言われたアナン様は近付いて拾おうとしました。すると「うっ、なんだこれは臭くて気が変になりそうだ」ついにそれを拾えませんでした。でも、お釈迦様は何も仰いません。黙ってその傍らを通り過ぎて行かれました。しばらく行くと又、縄が落ちていました。お釈迦様は再びアナン様にそれを拾うように言われました。

「うー、またか。なぜお釈迦様はそんなことをお命じになるのだろう」といぶかしく思いつつも、縄にこわごわ手を伸ばしました。するとどうでしょう。今度はとても良い香りではありませんか。「おお、何とふくよかな香り、心が澄み渡るようだ」思わず拾い上げました。「アナンよ、そなたが手にしておるのはセンダン木を束ねていた縄なのだ。そして、先程の縄はいらん樹を束ねていたのだ」いらん樹は人の死臭と同じ悪臭を放つ木で、そのにおいを長く嗅いだ者は発狂すると言われています。一方、せんだんは香木を代表するものです。「アナンよどちらの縄も、最初からにおいが付いていたのではない。それぞれ木を束ねていたが故にそのにおいが染み込んだのだ。人の心も同じ。いずれにも染まり易いものだ。だからこそ努めて良い縁に触れねばならぬ」そう諭されたのです。

 では「良い縁に染められる」とは。日蓮大聖人は次のように示されています。例えばねじ曲がって伸びる習性のよもぎも、まっすぐに伸びる麻の中で育つと、不思議にまっすぐに伸びていく。又、蛇も筒の中に入れば自ずとまっすぐになる。人の心も同じ。お題目の添え木に支えられたなら、自ずから真っ直ぐに育っていくものであると。  

 ここで大切なのは、お題目の不思議さ、有難さとは「気付かぬ内に自然に」ということです。私達もそんなお題目に育まれる日々を送ろうではありませんか。