3月の法話 ゴハン下さい/植田観肇


 私の妻がお寺に来て間もない頃、真如寺で朝のお勤めが終わり、お堂のお給仕をしていた時、玄関のチャイムが鳴った。

 この時間、真如寺ではまだ寺務所を開けておらず、寺務所に用事のある方が庫裡のチャイムを押される事はよくある。このとき私はお経の途中だったこともあり代わりに妻が応対した。

 妻が玄関に出ると、そこにはハイキング風の格好をした男性が立っていた。

 玄関から戻ってくるなりおにぎりを作り始めた妻にどうしたのかと聞くと、どうやらその男性は全国のお寺を行脚して回っており、ゴハンが欲しいらしい。ちょうど朝ご飯の時間だし、行脚をしているなら、さぞかしお腹も減っているのだろう。ただ、朝早くから店もないこのへんぴな所に来るのだから、朝ご飯くらい食べてくればいいのに、と多少の違和感も感じた。

 妻がおにぎりを持って行くと、ありがとうございました、と丁寧にお辞儀をして帰って行かれたという。

 先日その話を祖母にしたところ、それは「ゴハン」違いではないかと指摘があった。その男性は「御飯」ではなく「御判」つまり御朱印が欲しかったのではないかというのだ。

 確かに、朝から寺に御飯をもらいに来るよりは、寺務所が開いてなかったので庫裡に御朱印をもらいに来る方が自然である。それに真如寺に来る途中にはもう一軒お寺があり、のっぴきならないくらいお腹が減っているなら、そちらでもらう方が早い。もしそうだとするなら申し訳ないことをしてしまった……

 誰しも勘違いはあり、なかなか以心伝心とは行かないものだ。対面して話す時でもそうなのだから、何百年も前の仏さまの教えを頭で理解し納得するのは無理な話だ。実際、法華経にも全てを理解し合えるのは仏様同士でしかありえないと説かれている。そこで大切なのが信じる事だ。理解ではなく、仏様を信じて、おっしゃるとおりにやってみる。それが仏道の第一歩なのだ。