4月の法話 ゼロへの立ち戻り/日 慧


 この町内のある小学校が閉校の日を迎えた。閉校式の様子がテレビや新聞で報道された。つまるところは人口減少の結果であり、地方の寒村が抱える深刻な問題が目に見える形となった一事例といえよう。

 式には住民総数を上回る大勢の人が来たという。誰しも、140年続いた学校が閉じられることには、涙を禁じ得なかったことだろう。ただ、その涙する人たちが、もし今もこの地域に住み暮らし、多くの子供たちがいたなら、閉校にはならなかったのではと考えると、複雑な思いがする。

 それぞれの事情があってのことではあるが、都市へ都会へと移っていけば、田舎は人口減少・少子化を避けることは出来ない。いずれこうなることは判りきっていたはずである。

 なくなって初めて気付くのは、私たち人間の特性のようなものかもしれない。燃料にしてもそうだ。薪や炭を使っていた時代は、木が少なくなれば植えて増やした。やがて石炭や石油の時代になると、ただひたすら掘り出すばかり。無尽蔵と思われたものが、無くなったらと慌てて、今度は原子の力を借りようとする。そしてその次は……。

 いつまでもあると思っていたものが、実は限りあると気付いたときにはもう遅い。空気や水がなくなったらどうなることか。失って初めてその有り難さに気付くのが私たちの常である。

 これを戒めるのが法華経に説くお釈迦さまである。実は仏の生命は永遠だという。しかし、いつも仏がおいでになると、その真の有り難さを人は忘れてしまいがちになる。そうなっては仏の説く教えも人に見向きもされなくなってしまう。

 そこで仏は本当は滅することなく教えを説き続けられるのだが、姿を隠してしまわれたというのである。つまり一度ゼロに立ち戻って、真に大切にすべきものをしっかり見つめ直せというのである。お釈迦さまの誕生を祝う花祭り。もし仏がいなかったらという、ゼロからの視点に立ち戻る機会としてはどうだろうか。