4月の法話 仏さまと私たち/日 慧

 中学校の卒業式に参列した来賓の一人が、

「職務上、この何年か毎年卒業式には出ているが、中学生が段々若くなっていくような気がしますよ」

 自分が年を取っていくのに対して卒業生の年齢は変わらない。その結果、相対的な年齢差がどんどん開いていくことにより起こった錯覚だというわけだ。

 ではお釈迦さまつまり仏から私たち衆生を見ると、一体どんな風に見えるだろうか。仏はルンビニーの園で四月八日にお生まれになった。花祭りとして祝う日である。それがいつのことかについては種々の説があるが、最も時代が下がる説では西暦紀元前四六三年という。仏は八〇歳で御生涯を閉じたとされるが、法華経によると、姿は隠されたが「寿命無量」にして滅せず、つまり死んではいないと説かれる。とすると現在のところ二四七二歳ということになる。

 ところが法華経では更に仏としてこの世に出てから「甚だ大いに久遠なり」と明かされており、実は今まですでに永遠の時間を経てきたのだとされる。そんな仏から見れば、私たちは若いのなんのという以前の存在、一瞬のうちに生まれて消えていく泡のような存在に過ぎないことだろう。

 しかし仏はそうは言わない。衆生は全て吾が子であり、子である衆生を救うために自分はこの世にいるのだと説かれる。私たち衆生を救うために存在し、一人残らず救うためにはみんなが救われるまで永遠に見守り続けなくてはならない。それが自分の役目だと説かれるのである。つまり私たちの相対的な眼からは、仏と比べれて取るに足りないような存在が私たち自身であると映るが、絶対的な仏の世界においては、私たちと仏は対等の関係であるといい、仏にとって私たちはなくてはならない重要な存在だと説かれるのである。

 四月八日は可愛らしい誕生仏に甘茶をかけて祝う。しかし実は、私たちが仏に祝福されているのだと言うことを心に留めて置かなくてはならない。