5月の法話 最高の教育/植田観肇

 三歳になりいろんな事が少しずつ自分で出来るようになってきたばかりの子供がまだ何も分からない一歳に満たない子供に向かって何かを教えている。

 影からそっとのぞいてみると、どうやら積み木の積み方を教えているようだ。上の子は積み木を積み上げることが面白いのでどんどん積み上げていくのだが、下の子は何が面白いのかさっぱり分からない様子で、最初はきょとんと見ていたが、結局積み木をぐちゃぐちゃにすると興味を無くして別のオモチャの所へ行ってしまった。

 上の子は、せっかく教えてあげた積み木遊びに興味を持たれなかっただけでなく、自分が積み上げた積み木も崩され、なんともやるせない表情をしていた。

 上の子にしてみれば楽しい遊びも、下の子は何が楽しいのか理解できないし、よく分からないことを強制されてかえって迷惑といった所かもしれない。

 私も学生時代を思い起こせば、一体何の役に立つんだろうと思いながら受ける授業は非常に苦痛で内容を理解するのも一苦労だが、興味を持っていることや具体的で役に立ちそうな話を聞いている時は楽しい上に話の吸収も早い。

 日蓮聖人は人にものを教えるとは「車が重くて動かない時には油をぬれば回転することを教え、水の彼方へ渡る時には船を浮かべれば容易に行けることを教えるといった具合に、具体的で明瞭な指導をする事である」(上野殿御返事)とおっしゃっている。

 具体的な指導をしようと思うと、相手がどういうことに興味があって何がしたいのかしっかりと見守らなければならない。難しいかもしれないが、こうした積み重ねが、知識や体験をさらに深く広くしていく。

 子供同士のやりとりを見ながら、自分も独りよがりな押しつけをしているのではないかと少し反省した。

 とはいっても長い人生、興味が無くてもいずれ役に立つこともある。ただ、興味の芽を摘むような事はしないようにしたい。