5月の法話 発想の転換/辻田教融

 先日自坊にて御守護神祭があった。野外での法要にも関わらず、その日は朝から生憎の雨。

 幸い法要開始直前に雨は止んだが、木の枝葉から雫がポタリポタリと。

 それにも関わらず、ご信者さんたちは傘も差さずに参列されていた。 「濡れますから傘を差してくださって結構ですよ」

 そう案内するのだが、ご信者さんたちは「これもご修行ですから」と、濡れるのも構わず最後まで参列されていた。

 私はそんなご信者さんたちに法華経を教えられた。

 法華経をよく信心し、身をもって読んでいる人にとっては、苦しいことであっても「これもご修行」と発想の転換が出来る。ただ苦しいだけではなく、そこには法華経を修行している歓びが加わるのである。

 法華経第十三勧持品には「濁劫悪世の中には多く諸々の恐怖あらん」と説かれている。また「我ら広く説くに、諸々の無智の人の悪口罵詈など及び刀杖を加うる者のあらん」とも説かれている。法華経の修行をする時には、必ず苦しいことや辛いことが起こるということが示されている。

 また、皆さんもよく読まれる宝塔偈には、法華経の修行は難しいが、それでもなお修行する人は無上の仏道を得、善の地に住して一切の天人が供養すると説かれている。

 日蓮聖人は開目抄の最後に「日蓮が流罪は今生の小苦なればなげかしからず。後生には大楽をうくべければ大いに悦ばし」と書かれている。修行をしているからこその苦しみであり、ゆえに将来の成仏が約束される。だからこそ苦しみが歓びに変わるのである。

 辛いことや苦しいことが続くと、どうして私だけがと落ち込んでしまうし、自分が苦しいことを他人のせいにしてしまったりすることは誰にでもあると思うがそれよりも苦しみを「ご修行」と捉えて歓びにし、より一層の信心に励む。そのほうがよりいきいきとした生き方ができるのではないだろうか。