6月の法話 金のまんじゅう/植田観肇
先日、母が旅行にいって帰ってきた時のこと。お茶を飲みながら土産話を聞くともなしに聞いていたが、つまらなそうな顔をしていたのに気付いたのか、ふっと奥へ行くと勝ち誇ったような顔でお土産のお菓子を手にして戻ってきた。
なんでもこのお菓子は特別なお菓子で有名な品評会で金賞を取ったのだ、と言いながら包装を開けて机の上に広げた。箱の中を見ると、おまんじゅうが整然と並んでいた。金賞という言葉のせいか、それはどことなく優雅で品の良さそうな顔をしているような気がした。期待に胸をふくらませてそっと一口食べてみた。衝撃的な感動を期待した舌の上には、特別にどうと言うことはないただのおまんじゅうの味が広がった。
自分の舌にそんなに自信があるわけではないので、どこかにうんちくでも書かれていないかと先程はがした包装紙を改めて見てみると、金賞のメダルマークの下に少し小さい字で「某品評会で金賞を受賞した材料を使っています」と書いてあった。あまりにも堂々と金のメダルマークが付いていたので、てっきりそのお菓子が金賞を取ったのかと思っていたがどうやら違ったようだ。母もそれを見てちょっとがっかりしたようだった。劇的な感動は無かったが、普通においしいおまんじゅうだったのでそれはそれでおいしく頂いた。
材料が良くてもそれを正しく理解して使わないとその効果を完全に引き出せないということはよくある。仏教でも同じようなことが言える。例えば有難いお題目を毎日唱えているからといって、家のドアに鍵を掛けずとも泥棒が逃げだしたり、勉強をせずとも試験に受かったりすることはまずない。むしろ仏教を正しく信仰していれば、人に罪を作らさない為に鍵を掛けたり人のために役に立てるよう一生懸命勉強するのが本来の信仰の姿ではないか。
仏様やご守護神様は私たちを全力で助けて下さるが助けられる私たちがあやまった信仰にならないように注意したい。