7月の法話 ともに歩む/日 慧
昨日と今日、一週間前の自分と今日の自分。その違いは、本人でもほとんどわからない。しかし、これが十年も前と比べれば、違いは歴然である。
そんなことは判りきった上での挑戦が、今回の身延七面山登詣団参であった。
六月十二日。目指す七面山は標高二千メートル弱。先頭と最後尾に若いお上人がついて団扇太鼓を打つ。太鼓に合わせて御題目を唱え歩を進める。総勢三十名の先頭を私が歩く。小学五年生のお子さんがいるものの、平均年齢は六十歳。十年前と同じメンバーもあの頃より十歳老けたわけだ。
一歩ずつ歩みを進める内に、足が重くなるし、息が上がってくる。それでも確実に眼下の景色が小さくなっていく。こまめに小休止を何回も取りながら、あせらず足を進める。
「ここからなら、まだ引き返すこともできるだろう」そんな思いが脳裏をよぎっていく。もし先頭の私がここでダウンしたらどうなるか。一気に全員の気力は萎えて、悲惨な行軍になるに違いない。そう思うと、唱えるお題目にも力が入る。
気がつくと、ただひたすら御題目を唱えながら重い足を前へ上へと繰り出しているだけの自分に気付く。あるのは自身と共に和す同行の人たちの唱題の声と、前に開けている道だけで、他には何も眼に入らず、耳にも入っていない。御題目を唱える声の乗り物に乗って進んでいるような不思議な感覚が今も蘇る。
自分がしっかりしなくてはと思い進んできたが、実は他の人たちの声の力に励まされてやってきたのだと気付いたのは、山頂近くまで来たときであった。
独り自分のペースで歩けば思い通りに進めるのかもしれない。しかし逆に他と共に歩けば、思わぬ力を得ることができる。他と共に在ることで、支え合い助け合って、苦難を乗り越えることができるのである。山道を歩くのも、時の流れの中を進むのも同じことで、これが皆倶成仏道=菩薩の生き方であることを改めて実感させていただいた。