7月の法話 道路/新實信導

 護美という熟語は中国になく日本で作られた当て字だそうだ。昔から日本人が美しさを護る心を養ってきた表れであろう。ところが最近、車を運転していると気づくことがある。赤信号で停車したとき、中央分離帯や路肩の植え込みを眺めると、空き缶やペットボトル等のゴミの多さに閉口する。また車道にスーパーの買物袋に入ったゴミが置かれているのを度々見かける。ときには、その袋が車に踏みつぶされ生ゴミが散乱していたこともあった。

 道路という漢字は、白川静氏は『漢字百話』に「道路は外部の世界に連なる、最も危険な場所であった。それでその要所に道祖神を祭り、道路の分かれめには岐(ふなど)の神、また境界にあたるところには塞(さえ)の神をおいた」と説く。また同氏の『常用字解』には「道路とは呪力によって祓い清められたみちをいう」とあり道路は神聖な場所と考えられていた。だから昔の人は家の前の道をきれいに掃き、打ち水をして清めてきたのである。

 それが近頃は道路がゴミ箱化している。これではエゴの塊で、この後ゴミがどのようになろうとも自分の知ったことではないという心の現れであろうか。

 例えばコンビニで弁当を買ったとする。この弁当には弁当を運んできた人がいる。さらには調理した人、材料の野菜や米を育てた人など。一つの弁当にもそこには多くの人の手が関わっている。私たちの生活の実状は見えない他からの多くのお陰を頂戴しているのである。

 そう考えたとき、簡単にゴミとして片付けられるだろうか。弁当を食べ終えた空箱を見たとき、ありがたいという感謝の念も生じよう。その恩に報い「敬う」心を持つことで人は人となれる。このことが大事だと仏様は私たちに教えられているのである。

 己の幸せを願うならば、まず恩を知って敬う心を持つことである。そして人々の幸せを祈るならば必ずや神々は降臨し、人生の道を開いて下さるに違いない。