7月の法話 雨とモリアオガエル/日 慧

 山の中にある当山は、自然の影響を強く受ける。

 風、雷、雪の被害、と日々が自然との闘いである。

 特に雨は油断できない。先日の豪雨は、全国各地に被害をもたらした。当山でも崖崩れなどが起きないかと気になったが、おかげで大過なくすんだ。良かった良かったと、感謝しながら境内を見回っていると、裏庭の池でちょっと気にかかる光景を眼にした。

 大雨で水が満々と満ちている池の上に、木の枝が張り出している。そこにモリアオガエルの卵がぶら下がっている。この時期、雨上がりの池などに産卵が見られる。私たちにとって強敵の雨も、彼らにとっては天の恵みとなるのだろう。

 ただ、この池は普段は水のない涸れ池なのである。大雨で満水になった池を見て、モリアオガエルとしては絶好の産卵場所だと思ったのだろう。しかし、水が引いてしまえば、卵からかえった小さな子どもたちは乾いた池の底に落ちていき、やがてはひからびてしまうことになる。豪雨が降らなければ池も満水にならず、間違ってもこんな所に産卵することはなかったろう。彼らも豪雨の被害を受けたわけだが、恵みの雨であるはずが、災いになったとは、全く皮肉な話だ。

 見かねて、卵のついている枝を水のある場所へ移した。それにしても、ちょっと考えれば、雨がやめば水が引くことぐらい分かりそうなものではないか。なんと分別のないことか。

 しかし、我が身に当てて考えたとき、仏さまから見た私たちは、まさにこのカエルたちと同じようにうつるのではないだろうか。少し考えれば分かるような失敗をしたり、同じ失敗を繰り返して後悔したり。そんな私たちを見放すことなく、優しく見守って下さるのが仏だ。大敵の豪雨も、時によって慈雨となり、なくてはならない生命の水を与えてくれるのだ。

 雨の多いこの時期、外界の些事を離れて、心静かに、仏に生かされている自分をしっかり見つめてみるのも大切ではないだろうか。