8月の法話 三日坊主/服部憲厚

 先日、書棚から見覚えのあるノートが発見された。手に取った瞬間、記憶が蘇る。三年程前に買った日記帳である。同時にいやな予感がしたが、とにかく開いてみることにした。

 第一日目、几帳面な字でその日の出来事を余すところ無く書いている。関心しながら頁をめくるが、日を追うごとに字数は減り、ついに八月前半を超えたあたりで筆は途絶え、筆者の消息は不明となる。

 我ながら、筆が途絶えた時期がなんとも頷ける。「お盆で忙しい…。」という僧侶としてもっともらしい理由をつけて、お蔵入りとなったに違いない。要するに、面倒くさくなったのである。

 昔から、飽きやすく、長続きしないさまを「三日坊主」というが、誰しもこんな経験があるはずだ。

 言葉の通り、坊主(僧侶)がすべて私のように飽き性であると誤解を招く前に、この言葉の本来の意味を記さねばならない。
「中途半端な気持ちで出家すれば、僧侶の厳しい修行に三日とは持たないぞ。」という先人の教訓である。どちらの意味をとったにせよ、私にとってドキッとさせられる言葉である。

 経験上、三日坊主の症状は、そのことがらに対して興味や感動がなくなってきたころに現れる。日記しかり。ただし自覚症状がないのでたちが悪い。

 お題目を唱える私達も、時としてこのような三日坊主の信仰に陥っていないだろうか。

 江戸時代の高僧、慧明日燈上人は、お題目の信心について、「南無妙法蓮華経と唱え、一時相続すれば一時の仏。一日相続すれば一日の仏。乃至、千万年相続すれば千万年の仏なり。」と云われている。

 お題目を唱えた瞬間、私達は仏様と同体となる。この一唱一時が仏様との感動的な出逢いだと気付けば、自ずと信心は、感動とともに相続される。

 日記一日目の、新鮮さ。お題目一唱の感動を常に持ち続けることが、三日坊主の特効薬となる。