8月の法話 戻った時間/毛利観恭

 母方の祖母が亡くなり、この七月に一周忌法要が営まれました。あと一月で百三歳という大往生でした。

 祖母の葬儀に行き、何十年ぶりかで従弟と会ったのですが、嫌がられないか心配でした。従弟の父の会社に若い頃勤めていたのですが、期待に応えることが出来なかったからです。

 勤めて四年半の頃、叔父は余命わずかという重い病気になり、私も叔母と頑張りましたが、力及ばず退職してしまいました。当時まだ学生だった従弟とはその後一度も会うことなく、心残りに思っていたのです。

 祖母の葬儀のあと、従弟と話す機会を得ましたが、立派な社長になっており、その姿を見て何故かほっとしたことでした。従弟もまた私の僧衣姿を見て、「本当にお坊さんになったんやね」と微笑み話してくれました。お互い長い年月の話をし、気持ちがすっかりほぐれた思いになれました。

 今にして思えば、彼も心配してくれていたのでしょう。お互いに気遣い心配しながらも、ついに機会を得ることなく何十年も経ってしまったのです。しかしこうも考えられます。永い年月を過ごし、それぞれに人生経験を積んだからこそ良い再会が出来たのだと。

 考え方が違えば同じ事柄でもまったく違って受け止めます。考え方が良ければ悪いことも良い方に進むが、考え方が悪ければ良いことも悪い方に進みます。考え方はその人の経験の積み重ねからなり、経験の積み重ねは生きていく修行です。

 日蓮聖人は、『観心本尊抄』に「仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず、所化以て同体なり」と説かれます。お釈迦様は過去にも未来にもこの世で私たちを救うためにおられるから、私たちは前向きに考え生きることができるのだと思います。それでも現世にお釈迦様は肉体を持たないため、直接お会いできない私たちはどうしても迷います。こんな私たち全てを救うため世に出された最高の教えである法華経に出会えたことを幸せに思わないといけないのではないでしょうか