9月の法話 ありがとう/服部憲厚

 夏休み、家族でお参りに来られた子供に、たまたま木陰にいたクワガタを見せてあげました。今の子はクワガタぐらいでは喜ばないだろうと思っていたら、興味津々の様子。「持って帰って育ててあげて」と言うと、ニッコリ笑顔で「ありがとう」と言って、得意げに持って帰りました。

 思いのほか喜んでくれて、心からありがとうと言ってくれたことで私の心までが明るくなったようで、その子の素直さがとても尊いものに感じられました。

 人は当たり前の日々の中で、何か特別なことがあると有難いと思うものです。しかし特別なことでも、それを当たり前のことにしか感じないと、有り難さに気づかないこともあります。

 クワガタも私にしてみればこの時期いつも境内にいる当たり前のことですが、その子にとっては普段手にすることなどない特別なものです。有ることが難(かた)いので「有難い」です。中々体験できない、得難いことに対して、有難い、ありがとうと、感謝の気持ちが出てくるものなのです。

 ではそんな有難いことは滅多に体験できないのでしょうか。日蓮聖人は『日女御前御返事』に、「妙法の五字の光明(こうみょう)に照らされて、本有(ほんぬ)の尊形(そんぎょう)となる」と示されます。どんな人、どんな物事にも表面には見えない、その本来の姿があり、それはお題目の光に照らされた時、仏様のように光り輝くものとなって現れると説かれるのです。当たり前の日々の中に、何気ない出来事の中に、光り輝くすばらしいものが隠されているのです。

 私たちは何か特別なものを目指して求めがちです。しかし実は初めから尊く有難いものなのです。それに気づかせて頂けるのが、そして私たちの人生を光り輝かせて下さるのがお題目の光であり、功徳なのです。

 「ありがとう」と心から言ってくれたあの子が、私の心を明るくしたように、心の底から唱えるお題目が、きっと皆さんの心を明るく輝かせることでしょう。