9月の法話 修行/及川晃延

 修行とはなんでしょう。厳しくつらく堅苦しいことだと思っていませんか。

 私は、お題目の修行とは身を以て行動し、口に唱えこころ(意)に念じ、この三つの行為(業)ができたとき、修行が成就し、願いが叶うと思います。修行とは明るく楽しく、豊かな生活をするための智慧です。人として生を受け死を迎えるまで、日々の行いを修めることが修行なのです。

 誰でも生まれたときはオギャアと一声をあげ、事切れて亡くなったときには口は一文字になります。五十音の「あ」に始まり「ん」の字で終わる。人の一生は「あ」から「ん」までのことに過ぎないのです。この間、蛇行することなく、まっすぐに歩んでいける人が仏菩薩さまなのです。それと反対に、楽な方へ楽な方へと傾き流れていくのが、私たち凡夫なのです。

 たとえば、妙見山奥の院への登詣は、いつの時代でも同じで大変な修行です。麓の真如寺からはわずか一キロメートル足らずの距離に過ぎませんが、起伏に富んだ山道を自分の足で歩かなければなりません。特に暑いときや寒いとき、また雨や雪の中を登るのは中々厳しいものです。しかし、これも修行のひとつと心得て歩けば、心が開かれ身体を流れる汗が心の垢までをも流してくれます。自分の心を見つめながら、あれこれと思い、反省したり、決意したり、新しい気持ちを湧かしたりします。何より妙見様のおいでになるお山での修行は、日頃鈍くなっている心を素直な謙虚なものにしてくれます。まさに能勢の大自然の力と妙見大菩薩の大慈念力がそうさせてくれるのだと思います。

 仏教には様々な修行法が説かれています。それらを統括するものとして、法華経御題目を身に口に意に受け持つことが最も肝要だと日蓮大聖人が述べておられます。仏のなさるように行動し、仏のお話になるように語り、仏の意をもって日々過ごすことが真の修行だということです。難しく考えるより、まずは頑張って参りましょう。