9月の法話 剃髪/服部憲厚
仏教徒の目標は、ただ一つ仏様に成ることです。これを成仏といいます。なんだか死んでしまうことを想像してしまいますが、それは違います。仏様のような素晴らしい人に成ることを成仏というのです。
恥ずかしながら僧侶である私も、日々の生活に追われるとそんな大切な目標を忘れてしまいます。そんな時、初心に帰っていつも思い出すことがあります。
あれは、高校三年の三月のこと。私は、お坊さんになることを決心し、立正大学へ入学も決まり、寮での僧風生活が四月一日から始まろうとしていた時です。お坊さんの寮ですので剃髪が原則。まずは今まで伸ばしていた髪を切らねばなりません。わかっているもののなかなか床屋へ足が向かないのです。
とうとう三月三十日。東京へ出発する前日です。覚悟を決めて、床屋に向かいました。「丸刈りで」床屋のおじさんは「何か悪いことしたんか?反省やな」「いや、お坊さんに…」
バリカンが頭上を走る感触、今でも忘れることのできない記憶です。
僧侶の剃髪は、お釈迦様が出家の時剃髪されたことが起源といわれます。世俗と離れること。髪の毛は自身の慢心、偏った心でありそれをまず捨てることから仏道修行が始まるのだと考えられてきたからです。
今では慣れたものです。自前のバリカンで刈ります。しかし、仏様のような人になるという目標を忘れそうになった時、あの一大決心の床屋でのことを思い出すのです。
あの時が私のお坊さんとしての第一歩であり、慢心と偏りの心を捨てた日でもありました。
日蓮聖人は、「仏に成らんと欲するの要は我慢(慢心)偏執(偏った心)の心なく、只、南無妙法蓮華経と唱えよ」と『法華初心成仏鈔』でおっしゃっています。
あの時捨てたはずの慢心偏りの心、今又育ってきているようです。髪の毛と同じく、これらも又放っておくと伸びるのです。刈り続けなければなりません。