9月の法話 ゆとり/新實信導

 もう少し余裕を持てば、慌てずにすんだのにと…。後悔することが多い。

 毎日何かに追われている気がしてならない。早く起きれば別のことをしてしまい、いつもの時間になる。

 炊事や洗濯などの生活用品にマイコンが内蔵され自動で動く。お風呂はスイッチ一つで自動でお湯はりしてくれる。昔にくらべれば生活が便利になって、余裕が生まれるはずなのに実際はそうではない。

 子供の頃、お風呂は薪で焚いていた。初冬になると山にいって薪になる木を取りに行く。それを家に持ち帰って木を薪にするため、適当な大きさに割る。それを積み重ねてお風呂を沸かす燃料とするのである。

 お風呂を沸かすときは、まず、かまどに火をつけた新聞紙を投入し、そこに薪割りで出た細木を入れ、団扇であおぎ火力を大きくする。このとき、着火用の細木の選びかた次第で火が消えることもある。いかに着火しやすいか、火力を大きくできるか、選ぶ必要があった。つぎは薪の出番である。火を消さないように少しずつ薪を投入していく。お風呂が沸くには夏場で三十分、冬場だと一時間ぐらいかかり、今では考えられなぐらい時間を要した。しかも火の用心ためお風呂が沸くまで離れる事ができなかった。一度、薪を入れると、しばらくは何もすることがないので、かまどの火を見ながら、いろんな思いが頭を駆け巡れることもあれば、ただボーとしているときもある。一見、時間を無駄にしているように思えたが、この時間が実は大切なのである。私たちは物事を早く処理することが良いことと思いがちだが、慌てて、失敗や好機を逃してしまうことも多々ある。

 ゆとりとは、物事に余裕のあること。窮屈でないことだそうだ。物事に余裕も持って取り組むときにゆとりは発生するものだ。信仰も同じだと思う。ゆとりを持ってじっくりと読経・御題目をお唱えすることで、煩悩を滅した有余の境地に達することができるのかも知れない。