10月の法話 酒は飲んでも飲まれるな/服部憲厚
「卒業十周年記念旅行をやろう!」
久しぶりに大学の同期数名で集まった居酒屋談義でのこと。K君のこの提案はほろ酔いの私達の賛同を得て即時に可決された。いい調子で酒がすすむ。幹事役から場所や日程までを話し合い大いに盛り上がった。 その帰りの電車で、ふと我に返ってこの記念旅行について思いを巡らした。
卒業から十周年の同窓会ならよく聞くが、記念の旅行までとは「仲が良いにも程がある…」酔いの回った頭でさらに思い巡らす。
我々同期二十名は、僧侶育成の寮生活を励まし合いながら共に過ごしてきた同志。夢のキャンパスライフは朝夕仏前の勤行に消え、青春を法衣の袖に押し込めた四年間。厳しい修行を思い出し、酔いが一気に醒めたが、おかげで記念旅行の趣旨も思い出すことができた。三十過ぎたオッチャン達が一堂に会し羽目を外して青春に戻る……。
否、それが旅行の目的であるなど僧侶として口が裂けても言えない。これは二日酔いの胸にそっとしまっておくことにしよう。
さて昨今、若者のお酒離れが進んでいるそうだ。理由は様々だが、その根底には「人との繋がりが面倒」という気持ちがあるように思う。もちろん飲みすぎは禁物であるし、飲酒の推奨でもないが、面倒を理由に人間関係までも希薄になっていないだろうか。
あの青春をかけた面倒な日々を共に乗り越えたからこそ彼らは私にとっての一生の宝となった。
人間関係が希薄になっている現代、そんな関係性は面倒と思われるが、顔を突き合わすリアルな日常でのみ培われる宝があるのではないか。
日蓮聖人は逆境の中、寒い身延山でご信者様からの心のこもったお手紙と供養のお酒を頂き、薬酒として飲まれたという。ご信者様の温かい気持ちに身も心も温められたに違いない。
秋の夜長には大切な人と一献は格別である。ただ、無明(心の迷い)の酒には酔うまい。