10月の法話 継続は力なり/日 慧

  駅の売店でペットボトルの水を買ったときのこと。
 「ビニール袋に入れましょうか」、と店員さんに聞かれたのでカバンに入れるために袋をお願いした。おつりをもらい、小銭入れにしまいながら隣の本屋を見ると、ちょうど買いたい本が目に入った。

 列車の発車時刻が迫っているが、何とか目当ての本も買って急いでホームへ行くとちょうど列車が入ってきたところである。

 このように、あまり誉められたものではないが、自分で自分を忙しくさせているようなことを、ちょくちょくしている。今回もその習癖とでもいうものによる行動であった。

 やれやれと落ち着いたところで、早速買ってきた本を手にとり、さて水をいっぱいと思ったのだが、カバンの中にもペットボトルが見当たらない。よく考えてみると、本が気になって水をもたずに本屋に行き、せかせかと急いでホームへと向かったため、水を受け取らなかったようだ。お店の人が気付いたときには、私は煙のように消え去った後だったということだろう。

 お金を払った上で、買ったものを忘れて店を出るなど、二重に損したわけで、少しでも慰めてもらえるかと家で話したところ、

「年をとると、二つのことを一度にこなすのは難しくなってくるそうですよ」

 甚だ面白くない答えが返ってきた。聖徳太子が十人の話を聞いたという故事には及ばないが、二つや三つの仕事はいつも一度にこなしているつもりだが……。

 そう言えば、仏様は一体何人の願いを聞いて下さっていることか。それに比べれば、凡夫の我々ができることには限りがある。どれだけのことができるか数を誇っても意味はない。

 ただ私たちにもできることがある。一つの事でも続けることである。一事を続けるのなら歳をとっても忘れずにできるだろう。日蓮聖人は、信心の極意は流れゆく水のように絶えることなく続けることが肝要と説かれているが、何事も継続こそが力となるであろう。