4月の法話 失せ物/日 慧

 たしか、ここに置いてあったはずだが、見当たらない。どこへやったのか。

 日に一度はそんな探し物のために時間をとられる。

 時間をかけて探すことができる場合はまだいい。先日のこと、出掛ける間際に運転免許証がないことに気付いた。顔色を失うばかりの大騒ぎとなった。

 家中総出でいつもあるはずのカバンの中を探し、ここぞと思うところをひっくり返す。出発時間は迫るが出てくるのはため息とグチばかり。もうだめかと諦めかけたその時、「ここにあったよ!」。その声を聞いた時のうれしさ。とにかく間に合って良かったと、心底誰にともなく感謝した。

 さてそこでふと思ったのだが、あるのが当然の免許証がなくなったからこそ感謝の念がわいたわけで、いつも通り手元にあれば感謝する気にはならなかったことだろう。これは免許証だけのことではない。空気にしろ水にしろ、家族にしても、実は他に代えることのできない大切な宝を、私たちはいかに粗末に扱っていることだろうか。

 釈尊が八〇年のご生涯を閉じられたのも、私たちのこのような心を推し量っての故であった。釈尊は実は永遠の生命をもつ久遠の仏であり、滅するということがないのだが、いつも私たちの眼前にいると空気と同じようにその存在を忘れられてしまう故、目に見えないものとされたのである。

 そして大地が生きとし生けるものを分け隔てなく支え、育んでくれるように、対価を求めることない無償の行為として、仏は私たち衆生を見守り、いつ私たちがすがりついてもいいように手を差しのべ続けて下さっているのである。

 いつ私たちが仏の存在に気付くのか、まったく判らないにもかかわらず、何故そこまでして下さるのか。それは、あたかも親が子を守り育てるようなもので、仏にとって私たちは子であるからだと言明される。これを大慈悲の心という。

 御降誕会花祭りに当たり仏の大慈悲心を胸に刻み感謝のお題目を唱えたい。