7月の法話 亡者の救い/服部憲厚

 切符がない。

 新大阪発東京行き「のぞみ」に急ぎ飛び乗った私はズボンのポケットに入れたはずの切符が全然ないことに気が付いた。

 思えば発車間際である。車内でも買えるお茶を、わざわざホームの自販機で買った記憶。焦って財布を取り出したとき、ぽろりと落ちたに違いない。

 元はと言えば「車内販売は高い」という我が家の家訓を信じた私が悪い。数十円か安いであろう自販機のお茶に執着した結果、切符を落とすという最高のドジを踏んだのである。

 到着後救いを求めて改札横の清算窓口へ向かった。落胆した客の話を親身に聞いてくれる真面目な駅員さんである。しかし、世の中そう甘くはない。

 「切符の落とし物を確認してみますが、なければ再購入していただきます。」

 そう告げられた私は、お茶をケチったことを心底悔いた。もう祈るしかない。

 待つ間、呆然と改札口を眺めていると、そこがだんだん三途の川のように見えてくる…。渡る者、渡れぬ私。幻覚である。

 死者が冥途の旅路にて必ず通らねばならぬのが三途の川。善人は渡船フリーパス。その他の亡者は自力で渡るか、流されれば地獄を見る。冥途には様々な難所や関所があり、生前の行いが鍵を握る。でも唯一、追善供養だけが故人の助けとなるというではないか。

 すると幻覚の中で、天から声が聞こえてきた。

 「お客様。新大阪駅で切符の落とし物が届いているようです。」声の主はあの駅員さんであった。

 見ず知らずの奇特な方が切符を拾い届けてくれたそうだ。おかげで私は、再購入を免れたのである。

 亡者となってはじめてわかる、追善供養のありがたさ。血縁や恩人の供養なら当然だが、冥途には迷い苦しむ有縁無縁の精霊が大勢いるという。

 お盆も近い。せめて年に一度は彼らの為にお題目の声を届けたい。追善供養とは、死者を救い、巡って生者の功徳となるのである。