12月の法話 賀状前にて/中沢 勇輝

 年末に近づくにつれ、とにかく忙しい。
スマートフォンのグーグルカレンダーでスケジュール管理をしているのだが、毎日のように何かしら予定が入っている。
前回、丸一日休んでいたのはいつだったかと見返すとどうやら半年も前のことだった。歳を重ねると、こんなには動けないなと思うが、何とかなっている自分に少し驚く。

 余談だが師走の語源は、お坊さんが年末に檀信徒の家に伺い、お勤めをする「窯締め」から来ているらしい。窯締めで、お盆の棚経のように、あちこちの家に伺い、走り回っていることから来たそうだ。
関西では見かけない風習だが関東ではよく見かけるそうだ。関東のお寺さんも大変だなと思いつつ、この忙しさに窯締めまであるとどうにもならないなとつい思ってしまう。

 あまりにも忙しいのでこの時期、そろそろ書いているはずの年賀状も一切手についていない。
真っ白な年賀はがきの束が私の机の上で早く書けとでもいうかのように存在を示しているが、いつも見て見ぬふりをしている。そんな、ものぐさな私と比べると(比べること自体、失礼な気もするが)日蓮大聖人はなんとも筆マメであったようである。

 現存する真蹟(大聖人が書いたものであると確実に認められる筆跡)だけでもおおよその数字を『昭和定本日蓮聖人遺文』に拠って挙げれば、著作・書状のうち完全に伝存するもの一一三点、断片の存在するもの八七点、図録の完全なもの二一点、断片のあるもの二九点、著作または書状の断簡三五七点、(ただし重複・連結するもの数点)、要文断片一四〇点、書写本二三点。

 と、とんでもない数だ。
それだけ大聖人がお弟子やご信徒にいつも心を配られていたのではないかと愚考する。私も弟子の末席であるから、まずは大聖人の真似(これも失礼か)をしようと決心して真っ白な年賀状の束と格闘しよう。