2月の法話 『人生百年時代』/服部憲厚

祖母の趣味は、裁縫である。ほぼ毎日針を持ち、出会う人、縁ある人ごとに手縫いの巾着や手提げ袋をプレゼントしている。

数年前その手が止まったことがあった。それは、九十も半ばを過ぎた祖母が風邪をこじらせ一週間ほど寝込んだときのことである。「今まででこんなに臥せったことはない」と看病する母は言い、見守る我々家族も「歳が歳だから…」と相当に心配した。もしもの時までいろいろと想像が及び我が家に暗雲が立ち込めたある日、病床の祖母は確かにこうつぶやいた。

「こんなことでは先が思いやられる!」

齢九十を過ぎた人とは思えぬ言葉に、家族は安堵を超えて笑い崩れた。まさか翌朝、本当に起きて針を持っているとは恐れ入った。

以来この出来事は我が家の語り種となっているが、得てして祖母の心配はたいてい外れるのである。

大正八年生まれ。祖母は今月で満百歳を迎えた。思いやられるどころか、今でも朝昼晩しっかりと食べ、日常生活も介護なし、相変わらず趣味の裁縫を楽しんでいる。こんな百歳ならなってみたいと思うが、不安もよぎる。

人生百年時代といわれる昨今。平均寿命は戦後から右肩上がりで延び、これから祖母のような超高齢者がどんどんと増えることが想定されている。

働き方、年金制度、医療問題…と不安は山積。人生設計や国の仕組まで何事も百まで生きることを想定して考えなくてはならないと騒がれているが、祖母は「まさか、自分が百まで生きるとは夢にも思わなんだわ」と笑いとばした。

お釈迦さまの金言。法華経には「誰しもこの世に使命を持って生れている」と説く。使命とは、祖母を見ていると何も特別なことをする必要はないようにも思う。ただ今日の一日を誰かの笑顔のために生きる日々の積み重ねである。人生百年時代を生きぬく生きたモデルに学ぶところは多い。

今日も祖母は、誰かのために針を握る。