7月の法話 感応道交/相川大輔

 最近、アメリカ出身の青年に仏事を教える機会があった。彼の母親は日本人だが彼自身は幼少期よりアメリカで育ち、当然アメリカ人として生きてきたので、日本語はカタコトしか話すことができない。私自身も長い間英語を聞いたり話したりする機会がなかったので、英語はカタコトしか分からない。

 この言葉の壁を前にして初めは仏事を彼に伝えることは非常に困難であるように思われた。しかし、一日また一日と彼と接するうちに、それは杞憂であったと気づくことになった。

 例えば読経などの発声法を教える際、なかなか彼に私の意図が伝わらず、彼がうまく実践できないことがあった。その時、私は思わず彼に向かって
「Your breath(あなたの息を)をinto yourself(あなた自身の中に)だ!」と伝えると
「OK、OK!(わかった)」と彼。その直後に再び彼に発声してもらうと、今度はうまく発声できた。
「以心伝心」という言葉があるが、なるほどこういうことかと得心した瞬間であった。何でも貪欲に学び吸収したいという彼の真剣な姿勢と、これを彼に何とかして伝えたいという私の気持ちが重なった時、心は障礙なく通じるのだ。

 お釈迦様と私たちの関係についても同じことがいえまいか。「感応道交(かんのうどうきょう)」という言葉がある。感とは、私たちが仏菩薩の力を発動させるために仏菩薩に向き合う姿勢をいい、応とは仏菩薩がそれに応じること。

 自我偈の中にも、私たちがお釈迦様の慈悲を信じて素直な姿勢でお釈迦様にお会いしたいと一身に願えば必ず霊鷲山でお会いできる、と説かれている。

 冒頭の青年のように、お釈迦様にお会いしたいと素直でがむしゃらに願いながらこの日常を生きるのならば、その思いは必ず届く。なぜなら、いつでもどこでもお釈迦様の大きな慈悲は私たちに対して開かれているのだから。