10月の法話 世界がぜんたい/服部憲厚

 先日、車をブロック塀に擦ってしまった…。

 細い路地の住宅街、ハンドルを左に切ったとたん、車の左側面を「ガリ!」。

 その時、運転手の私は無傷だったが、痛くもないのに咄嗟に「痛っ…」と声が出たことと、その後すぐに車を出て、痛々しく傷ついた車の患部を労わり撫でていたことは、我ながら不思議な行為だったと思える。

 でもきっとこの感覚は、ドライバーの皆さんならなんとなくわかっていただけるのではないだろうか。

 運転は好きだが得意でない私は、大型トラックやバスの運転手、飛行機のパイロットたちがあの巨体を自在に動かし操縦する姿にいつも感心する。

 それは彼らが巨大な車体と一体になっているからこそできる神業であろう。

 その日私は、家族から厳重注意をくらい、車の修理費はすごく痛かったが、愛車と一体になったような感覚に浸りながら、ついに私もその領域に達したかと得意げな気持ちになった。

 私たちは時に、我が身と別の何かと感覚的に一体になれることがある。

 しかしそれは、学習し、習熟しなければ到達できない感覚でもある。

 童話作家で、法華経の熱烈な信仰者であった宮沢賢治氏に有名な言葉がある。

  世界がぜんたい幸福に  ならないうちは個人の  幸福はありえない    『農民芸術概論綱要』

 これは、世界の人々がみんな幸せにというありきたりな平和論ではない。

 世界と私が一体にならなければ本当の幸福は訪れない、という賢治の法華経を骨髄とした宗教的な思想が根底に流れている。

 賢治は、その熱烈な信仰を実践し、日々にお題目を唱えていたそうである。

 それは誰もが一声に「世界と私が一体」となれると説かれた行法である。

 世界の国々が不穏に擦れ合う今こそ私たちは、賢治のこの言葉の本当の意味を訊ね、お題目を日々に唱え習熟しなければならない。

 読書の秋、賢治の作品をおすすめしたい。