8月の法話 亡骸に触れる/服部憲厚

先日、お葬式の最後のお別れの場に立ち会った。
それは、お孫さんの一人の男の子が、棺に寄り添い亡きおばあちゃんの頬に触れたときのことである。
父親が「こらこら!触ったらあかん」と制止。男の子は驚いて手を納め、しょんぼりしてしまった。
参列者が棺に花を手向け故人と触れられる最後の時間であるにも関わらず、私はお坊さんとして、その子に何も声を掛けてあげられず後でモヤモヤと後悔した。

確かにお父さんの気持ちもよくわかる。亡骸に触れることになんとなく抵抗があるのは、私たち日本人の死生観をよく表しているのではないだろうか。
それは神道の「穢れ」という考え方である。
日本人の清潔好きもその影響であると思われるが、穢れとされる対象は、多岐に渡り、理に適った衛生感覚もあれば、迷信めいた差別的な習俗まで様々だ。

この「穢れ」について日蓮聖人の考えは実に先進的であることに驚かされる。
ある女性信徒が日蓮聖人に「月水(月経)のときは仏前にて読経やお題目を唱えてよいのか」と質問した。その問いに答えたのが次の『月水御書』である。
「経典には月水(月経)を嫌うという教えはどこにも見あたりません。人間の生理現象であって、生死の種を継ぐ自然の理。それが穢れだからといって尊い法華経、お題目の修行を遠ざけるべきではありません。体調に応じ、時に応じてお題目をお唱えください」とお答えになられている。
本来、仏教には穢れを嫌うという思想はない。「月経」しかり「死」を穢れとは考えず、自然の理としてむしろ遠ざけず受け入れるべきと考えている。

亡骸に触れることは、第一に故人の尊厳を重視し、その状態や感染症等に十分留意することが出来れば、何も忌み嫌うことはない。
愛する人との別れ。成仏を祈るお題目を唱え、亡骸に優しく触れて霊山浄土へ送ることは、家族にも故人にもかけがえない素敵な思い出となるに違いない。