10月の法話 そこにある幸せ/桑木信弘
お寺と聴くと何を感じるか、人それぞれに違いはあるでしょう。退屈なイメージや堅苦しさ、安らぎなど様々です。
学生時代を北海道で過ごした私は修学旅行と言えば奈良京都の仏閣巡り。バスに揺られ行けども行けども寺ばかりでうんざり。でもその後、日蓮宗のお寺に弟子入りして御題目を唱えていると、何故か懐かしい気持ちで安らいでいました。
先日、町外から月一回来られる信者さんが「お寺に来ると懐かしい気持ちでホッとして幸せ、自然体に戻れるのです」と、お寺はあくせく求めずとも、「そこにある幸せ」を実感できるとも仰っていました。
生きていますと色々と取り組まなければならぬ事があります。いつもどこか何かに追われるような現代の社会生活で心の波は荒れ、水面が荒く波立てば映る景色も歪む様に心も目に見えるもの、耳に聞こえるものだけで渦巻いて乱れてしまいます。
月一度来られる信者さんも、かつてはお寺や仏様など見向きもせずに荒れた気持ちで過ごして人生の右も左も分からなくなり疲れ果てた時、何気に立ち寄ったお寺の静けさで『ホッとする様なそこにある幸せ』をみつけたのだと話して下さいました。
私達は仏種という幸せの種を誰もが具えています。でもその華を咲かすには、光と水をやり、肥料をやり育んでいかねばなりません。 「優曇華」という三千年に一度咲くといわれる花が法華経に説かれています。じっと華開く時を待っています。同じように私達の仏の種もいつ咲こうかと、その時を待っているのです。
宗祖日蓮聖人の御会式が修せられる季節です。
「日蓮が慈悲広大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながるべし」とのお教えの通り、永きにわたり私達を導いて下さる御題目をお唱えして、私達の仏の種と、心という土壌に潤いと恵みの雨を降らせ、「そこにある幸せ」を感じて頂きますよう、ぜひ妙見山へお参り下さい。