1月の法話 大人の自覚/服部憲厚


 新年を迎え、今年も「成人の日」が近い。

 私が新成人として、この日を迎えたのは、早いものでかれこれ十年前に遡る。

 旧友との感動の再会を思い描きながら、地元の成人式に行ったのだ。

 しかし、会場をいくら探しても旧友を見つけることができない。数千人の中から、旧友を探し出すことなど至難の技。

 そもそも、私は地元に帰省することを、旧友に「報告」しておらず、成人式に行くことも「連絡」していなかったのである……。

 再会を喜びあい盛り上がる新成人を尻目に、一丁前に大人になったつもりの私は「相談」する相手もないまま、ただ路頭に迷っていた。

 その晩私は、初めてのお酒に酔いながら、大人の常識「ホウ・レン・ソウ」がいかに大切であるかをしみじみと学んだのである。

 体は、勝手に大人となるが、心はそうはいかないようだ。大人の自覚が芽生えたとき、人は、本当の大人となるのである。

 お経の中にも「大人」という単語が出てくる。これは、「オトナ」と読むのではなく「だいにん」と読んで、お釈迦さまのことを示している。世の中を救うような偉大な人物。大いなる人という意味だ。

 仏教徒の一番の目標は、このお釈迦さまのような人格者、大人(だいにん)になること。

 私のようなオトナになりきれぬ者が偉大な大人(だいにん)になどなれるのであろうか。はなはだ心配である……。

 しかし、お釈迦さまは、「全ての人々は、みな我が子である。」と妙法蓮華経でお説きになられていたはずだ。どんな人間であれ、みながお釈迦さまの愛子であることに変わりはない。

 蛙の子は蛙という。私達はお釈迦さまの子として、誰しもが偉大な大人(だいにん)となれる資格を持っているのだ。

 ただし、大人(オトナ)も大人(だいにん)も、忘れてならないものは、その自覚である。