6月の法話 名付け/箕浦渓介

 コロナも少し収まった昨年の冬、息子が誕生した。感染対策も緩和され、出産に立ち会う事ができた。

 初めて出産に立ち会い、いのちの誕生の瞬間を間近で感じた。男性の私には生涯経験することはできないし、またどれほど想像してみても実際の痛みは分かりようがないが、普段見ることのない妻の様子を目の当たりにして、ただただ圧倒させられるばかりで、妻の手を握り見守ることしかできなかった。

 それでも共に感じる事ができたこともある。その一つが名付けである。どんな名前にしようかと悩み、期日ぎりぎりに届け出た。

 親は子に願いを込めて名前をつける。その願いとは「いい子に育ってほしい」とか「悔いのない人生をおくってほしい」といったものだろう。しかし子どもがなかなか泣き止まない、思ったように寝てくれないなど、子どもがいると思い通りにならないと感じることが多くなると、いつの間にか自分の言うことを聞く都合のいい子どもに育ってほしいと考えるようになっていた。子どもに願う内容の身勝手さに気づかされる。

 お釈迦さまには一人息子がいて名をラーフラと言った。ラーフラとは一説には「障碍・束縛」を意味するが、一族の長となる身でありながら家族を捨て出家得度を選んだ若き日のお釈迦さまにとって、子どもの誕生が心をざわつかせるものであったことは想像に難くない。かわいくて、修行ができなくなるし、心が子供に奪われるからだろう。

 子供は幸せをたくさん与えてくれるが、それ以上に苦しみも与えるということなのだろうか。それでも、お釈迦さまは最終的にその一人息子を愛弟子として迎える。きっと親としての愛情もあったはずで、『スッタニパータ』というお経には、お釈迦さまの実子であることで思い上がったラーフラを、お釈迦さまがいさめる記述も見られる。

 そんなお釈迦さまの葛藤に、恐れ多くも同じ一人の親として親近感が湧いてしまうのである。