10月の法話 キャッチボール/森 慈徳

 私が大学生だった頃、友人と二人で和歌山市にある四季の郷公園という所に遊びに行ったときの話です。

 公園の広場で友人とフリスビーをした後で少し休憩していたところ、車椅子に乗った女の子が居ることに気づきました。私たちが、何となくその女の子を眺めていると、耳に補聴器をつけた難聴らしき男の子が、その女の子の傍に来て、どちらが誘うわけでもなく向き合ってボールを投げ始めました。

 まず、女の子が車椅子の上からポンとボールを投げました。女の子だということもあり、車椅子の上から投げたボールは力がなく、数メートル先まで転がるだけでした。そのコロコロと転がるボールを男の子は拾い上げると、数メートル離れた女の子のところまで走って手渡しに行くのです。そして、また元居た場所に戻ります。すると、もう一度女の子が投げました。また男の子は拾って手渡しに走るのです。それも二人ともニコニコと、とても楽しそうでした。その繰り返しを見ていた私たちは、ほほえましさで胸が一杯になりました。

 子供達はきっとお互いを思いやるという心の優しさに気づいていて、それがこのような行動となって現れたのではないでしょうか。

 このことは、私たちが仏様の子供であり、仏と成る種が備わっているという証拠に他ならないのではないかと、今更ながらに感じています。また、この二人の子供の光景は、お釈迦様が私に「仏と成る種」の存在を気づかせるために用意してくださったものだったのかもしれません。

 私たちは誰から教わるでもなく他人を思いやる美しい心を持っています。でもそれだけでは仏に成ることはできません。自らが仏様の子供であるという自覚を持ち、仏と成る種を育むという修行をしていかなくてはならないのです。例えば二人の子供がお互いを思いやり、心と心のキャッチボールをしたように。

 では皆さん、心のグローブとボールのご準備を。