10月の法話 正義の味方/植田観肇

 普通の人が正義のヒーローに変身して、ばったばったと悪を倒す。昔からよくある子供向けの番組だ。見ているとスカッとするし、だからこそ同じような番組が手を変え品を変えてずっと続いているのだろう。

 これが大人向けの番組になると正義のヒーローも問題を抱えており色々悩んだり、悪の秘密組織も実は正義の味方と戦わなければならない事情があったりと一筋縄ではいかなくなってくるが、最後は正義が勝つ話が多いように感じる。どっちつかずで曖昧なままだと見ているこちらがもやもやしてストレスがたまってしまう。娯楽として見る以上テレビの中くらいシンプルであって欲しいと思うのは私だけではあるまい。

 皆様も実感するとおり、実際の生活ではこっちが正義だこっちが悪だと単純に割り切れるものでは無い。テレビのヒーローでも、悪者の側から見ればきっと信念をもって正義のヒーローと戦っており、むしろ自分たちこそが本当の正義だと思っているかもしれない。こちらが正義だとして一方的に痛めつけるのはもってのほかである。

 正義というのは非常に主観的で自分勝手なものだ。主体が変わると正義もまた簡単に変わってしまう。それにも関わらず私たちは自分たちこそが本当の正義であるかのように錯覚してしまいがちだ。頭では分かっていても自分が主体となると気がつきにくいものだ。

 自分が正しいと思い込んだ時に、それを否定されると人格を否定されたように感じ、ともすれば、仏教における三毒の一つである怒りが生じる。だから正義とは怒りの原因というべきものかもしれない。

 ちなみに三毒とは生きる上での妨げになる三つの根源的な煩悩であり、それぞれ、貪(むさぼりの心)瞋(怒りの心)癡(無知による迷いの心)をいう。

 正義だ悪だという以前にまず相手に寄り添って生きていくという事が法華経を生きるということであり、お題目を実践するという修行なのである。