12月の法話 鏡/新実信導


 朝起きて、最初に見るものは?

 たぶん、おおよその人が洗面台の前に立ち、ねむけ眼で自分を見ながら顔を洗う。単に顔を洗っているのではなく、鏡に映った自分を見て体調を看ている。

 現在の鏡であるガラス鏡は歴史が浅く、明治十年以降に舶来鏡が輸入されて以来、昭和初期にやっと国産板ガラスが生産され、鏡の素板として使用されるようになった。

 世界で最も古い鏡は、水に映った姿をみる水鏡であるとされるが、日本に鏡が最初に伝わったのは弥生時代といわれ、中国から鏡が輸入されたが、それらは顔を映すものでなく、豪族たちの宝物や祭事の器であった。平安時代には鏡は貴族の化粧道具、あるいは神仏への奉納物となり、仏教の儀式でも使用されるようになった。室町後期になると鏡に柄をつけた柄鏡(えかがみ)が出現し近世和鏡の主流となった。江戸時代には柄鏡が量産化され、懐中鏡とともに広く庶民の間に広まり、今まで高価な宝物であった鏡が、庶民にも手にできるようになった。

 ところで、日蓮大聖人のお手紙を拝見すると、当時は銅鏡であるが、鏡を使われていた事がわかる。

「自分の顔を見るには曇りない鏡に写してみるべきである。同じように国家の盛衰消長をはかり知るには仏法の鏡に照らしてみるべきである。そこで仁王経・金光明経・最勝王経・守護経・涅槃経・法華経等の大乗経典を拝見すると、その信ずる仏法の邪正により、その国が栄えたり亡びたり、また人の寿命も長くもなり短くもなる。(『神国王御書』)」

 つまり国の盛衰や人の寿命はその信ずる仏法の邪正によると教示されている。 大聖人は、仏法の鏡=一切経(仏教経典)をお読みになられ、法華経こそが正しい経典であり、今の世の人々に必要な教えであると確信され、法華経を世に弘められたのである。

 朝、鏡の前に立つとき、輝けるかは己心をいかに磨き精進するかであろう。