5月の法話 麦の秋/植田観肇

 

 能勢の春は遅く、ゴールデンウィーク近くになってもまだ桜の花がちらついていることも珍しくない。そんな桜と共に次々と落ちてくるのが竹の葉だ。掃いても掃いても落ちてくる黄色くなった竹の葉を掃除しながら、五月は「竹の秋」とはよく言ったものだと、黄色い絨毯を掃きながら古人の知恵に感心していた。

 そんな話を祖母としていると、「麦秋」という聞き慣れない言葉が出てきた。一瞬、新しいビールの名前かと思ったのだが、そうではなく、麦が実り収穫される五月を表す俳句の季語であった。竹は身近にあるが麦は近所にないので知らなかった、と照れ隠しに言い訳をしてみたものの、自分の教養不足を恥じたのであった。

 言い訳の続きになってしまうが、能勢には米を育てる水田は多いが麦畑は見たことがなく、米のような穀物はみんな秋に収穫するものだと思い込んでいた。

 「麦の秋」とは素敵な言葉だ。だが自分の生活の上では実感に乏しく、なんだかかしこまって、時に白々しくも感じる。今はほとんど見なくなった麦畑だが、季語ができるほど一般的であった頃なら、きっとありありと情景を頭に浮かべることができたのではないかと考えると残念だ。

 ひるがえって仏教を考えたとき、昔に比べると、麦畑と同様、仏教に触れる機会は減ってきているような気がする。昔の日本は仏教が生活に溶け込んでいた。「釈迦に説法」や「知らぬが仏」など仏教由来のことわざが多いのもその一端であろう。仏教に囲まれていれば自分の体験も自然と仏教にそって考えることができ、実感を持って仏教が理解できるチャンスとなる。

 私たちが信仰する法華経は生きていく上での智慧がいっぱい詰まっている。これを知らないで生きていくのはもったいない。この教えが、私にとっての「麦の秋」となるかどうかは私たちの行動次第だ。広く世に出て仏教の畑を耕していくのが私たち信仰に生きる者の使命ではないか。