7月の法話 親から子、子から親/植田観龍

 親による子供の虐待事件が後を絶ちません。何とも心が痛み憤りを感じずにはいられません。

 さて、私がそう感じるのには理由があります。

 先日のことですが、知人を通じてある男性と友達になりました。私と同い年という事で、しかも日蓮宗の檀家さんの家でお題目と共に育ったというのです。そんなこともありとても気が合い、いつしか仲良くなりました。

 その彼にお子さんができた時の事です。

 彼は私に「ぜひとも名付け親になってくれへんか」と頼んできました。そんな大それた事とは思いながらも「私で良ければぜひ」と快く引き受けたのです。彼も奥さんと我が子の将来に期待をふくらませながら色々な名前を考えていました。

 実に親というものは子供に対しては計り知れない思いを持つものです。もし子供がお腹が空いたと泣いているのに自分はお腹がいっぱいだからといってご飯をあげないことがあるでしょうか。親は何があっても必死になって子供を守ろうとするものです。虐待などもっての他のことです。

 「子にすぎたる財なし、子にすぎたる財なし。」

 これは日蓮聖人の『千日尼御返事』というお手紙の一説です。佐渡へ流罪になった日蓮聖人に対してお給仕していた千日尼とその夫である阿仏房。その阿仏房が死去した後、その子である藤九郎守綱が父の遺志を継いで熱心な法華経の行者となり、父の遺骨を首にかけ一千里の山を越え海を渡って身延山に登り納骨を済ませ、翌年にもう一度身延山に登って慈父の墓を拝みました。子ほどすばらしい財宝はありません。子よりも秀れた財宝はありません。と、千日尼に宛てたお手紙です。

 親に対する孝行の気持ちがもてる子。そしてそんな子に育てる親がたくさんいれば冒頭のような事件は起きないのではないでしょうか。

 子供はたから。そんな言葉と一緒に名前を考えようと思います。