8月の法話 心を計る/毛利観恭


 最近思うことは「身を随えられる様になっても、心を随えられる様になってはならない」という日蓮聖人のお言葉です。

 私達は目標や夢を持ち、それを実現させようと努力して生きていますが、現実は思うようにならず苦しんだり、喜怒哀楽の感情の波に飲まれ、本来の目的を見失ってしまうこともしばしばあります。

 喜びや楽しみが多ければ良いのですが、現実はむしろ怒りや哀しみの方が多いように感じます。なかには一生懸命お経をあげた後にもかかわらず、すぐに愚痴をこぼしたり怒りをあらわにする人も見かけます。でもそれではせっかく積んだ功徳を怒りで燃やしているようなもの。大変もったいない事です。これも心まで随えられてしまった状態といえます。

 ではなぜ私達は心をコントロールできないのでしょうか。

 私達は他人を見るとき、ついつい自分の尺度で他人を計って評価し、時に優劣をつけ一喜一憂してしまいます。また他人を評価しても、その評価は立場や視点によっても違いますし、自分の中の正義を他人に当てはめてもそれが必ずしも正しいとは限りません。

 何か寸法を計る時、その定規の目盛りがいい加減であれば正確に計れません。私達の心も気分によって目盛りが変わる、いい加減な定規と同じなのです。

 仏様は「他人の良悪を観るべきではない。他人の行為を見るべきではない。ただ自己の為せること為さないことを観るように」とおっしゃっています。

 つまり心の定規を安定させるには、人を評価せず、優劣をつけず、自分をしっかり見ることなのです。そうすればおのずと他人を見ても、いたずらに評価することなく、それぞれがありがたく尊い存在であると気付くことができるのです。

 日蓮聖人はそのことを、お題目を口に読むだけではなく身に心に読む、と説かれています。くれぐれも口先だけのお題目にならないよう気をつけましょう。