8月の法話 合掌の心とは/倉橋観隆
うちでは五大紙の一つS新聞を長年購読しております。この新聞屋さんの配達の姿に感動を覚えます。その人の年令は五十才ぐらいでしょうか。
随分以前のことです。夕刊を配達してくれた時、たまたま私がポストの前にいたので「いつもご苦労様です」と言って新聞を受け取ろうとしました。すると彼はわざわざバイクから降りて両手で渡してくれたのです。私は思わず感動しました。「今度の人は随分丁寧な人だなあ、私が声を掛けたからかな」とその時は思いました。
ところがそうでなかったのです。ポストに入れる時にもやはりバイクから降りて両手で丁寧に入れてくれていたのです。雨の時は合羽を着ているとはいえ、ずぶ濡れになっていてもやはり両手です。おまけに新聞はビニール袋に入っています。よそのお宅でも同様に配達している場面を何度も見かけました。しかもこの姿勢は何年経っても変わりません。彼の行動は人目を飾ってのことではないでしょう。たとえ相手がポストであろうと、その向こうにいるお客さんに無事に新聞を届けなければならないという使命感を持って仕事をしている現れではないかと思うのです。
ところで、日蓮大聖人は両手を合わせて相手を敬う行為である「合掌」の大切さをお説きになっておられます。その原点は法華経の二十番目に説かれる常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)のお姿にあるのです。この方は生涯出会う人総てにひたすら両手を合わせて尊び敬う修行をやり遂げて仏様になられたのです。
この菩薩が人々を敬った理由は、人は総て、その人にしか果たし得ない使命を必ず持って生まれて来ている。そのように尊い存在だからこそ合掌して拝んだというのです。大聖人はその生き方を学べと説かれています。
新聞屋さんの両手と大聖人の合掌の教えとが通じるような気がします。ポストから新聞を取り出すたびに襟を正される思いです。