11月の法話 法華経の修行/中沢勇輝

お経は難しいものだと思われがちである。たしかに漢文で書かれており、それこそチンプンカンプンだ。

たとえば自我偈。長い法華経の中で、最もよく読まれるお経文だが、その中に「一心欲見仏」という文言がある。

訓訳して「一心に仏を見たてまつらんと欲して」と読まれているが、どのようなことを示しているのだろうか。

一心とは心を一つの事に集中すること。つまり、ただひたすら仏の姿を見たいと願うのが「一心欲見仏」の意味になるが、何故仏の姿を見たいのだろうと、次の疑問が湧いてくる。

さて、私たちは悲しいとき苦しい時には、仏の救いの手にすがり付きたくなることがある。

仏に会い教示を得ようとの思いで、まず仏の姿を求めようとする。仏道修行とはその過程を言う。ワラをも掴む者の必死の思い。

まさに心を集中して、ひたすら仏を仰ぎ見て教示を得ようとする。

ところで「一心欲見仏」の後、お経文は「不自惜身命」と続く。仏さまに会うことが叶うなら、命をも惜しまないというのである。

しかし、命を長らえ、安楽に暮らしたいから仏を拝む、というのが普通ではないか。それが命がけとなれば、もともとの趣旨に矛盾するのではないだろうか。こんなこととてもできないと思う人もいるだろう。

しかし嘆くことはない。日蓮聖人は、一心とは特別なものではなく、日常生活における心だとされる。私たちの普段の心でよいのである。

ただし、大事なのは法華経を信ずる者の心と言うことだ。法華経を心に信じる者は、特別な修行をしなくても、四六時中欠かさず法華経を持ち修行する者と同様の功徳を得ることができるのだと説かれる。

法華経を信じるその一心こそが、そのまま成仏へと繋がっていくのである。

 修行とは、滝にうたれたり読経したりといった厳しいことをイメージしがちだが、日常生活の全ての場面において、法華経を信じ、法華経のままに行ずることこそが修行だと心得たい。