9月の法話 心の対話で安らぎを/桑木 信弘
皆さんコロナ禍であっても、供養はしていますか?
私が住職を務めるお寺の先代住職が遷化して早くも一年が過ぎました。
梅雨が明け夏が本番になる七月の中旬過ぎから、八月お盆が終わるまで境内や墓地の掃除を先代と二人で汗だくでしていたものです。
今は一人境内や墓地の草を一本抜くたび、先代との何気ない会話や、後ろ姿を思い出し、気がつけば生きている頃と同じように、心で対話をして過ごしている自分がいる。
かと思えば、ふと我に還ったように先代の居ない境内を見回して、「今頃、どんな想いで私たちを観ているのだろう」と死と一年という時の流れを実感します。
日本のある医師の話しによると、近親の死が与える残された人のホルモンバランスや免疫力は亡くなった直後からある一定の周期で回復しバランスを取り戻すそうで、百日、丸一年、二年、五年、七年と大まかに変化するらしく、それはちょうど追善供養をする百箇日、一周忌、三回忌、七回忌にあたるそうです。
昔から生活の知恵として亡き人の供養を通し、哀しみや後悔、寂しさやストレスを癒し気持ちを整理して亡き人と共に心身を養ってきたのでしょう。
コロナ禍となり密を避け、人や家族の繋がりが希薄になりがちで、ご先祖の追善供養まで省略、中止という話をよく耳にします。
私達の心を宿す肉体は、先祖から受け継がれてきたもの。ルーツとなる先祖は樹木に例えるならば大地におろす根です。
法華経の薬草喩品には、雨が降り大中小それぞれの草や木が花を咲かすが如く、仏の慈悲智恵の雨により衆生それぞれの花を咲かすと説かれます。
私達の大地と根である先祖に供養の水を注がねば、私達自身が枯渇してしまうでしょう。
真心を込めて手を合わせ、生かされている感謝の想いで亡き人たちと心と心で話し、命に慈雨を降らせ、コロナ禍にあっても供に安らぎを養っていきましょう。