4月の法話 形とこころ/偉美理庵

小学校の卒業式でも、和服に袴の姿を見かけることが多い。

新型コロナの影響で式典が挙げられなくなってきたのは嘆かわしいことだが、一生に一度しかないハレの行事だ。後日に残る形をしっかりと留めておくことも大事なことだ。

馬子にも衣装という言葉があるが、人は外見に左右されることは少なくない。

日頃はお転婆な娘さんが、ドレスを身につければレディになり、和服を着てお茶席にでも出掛ければ、おしとやかな大和撫子になる。

人を外見で判断してはいけない。

 

とは言うものの、外見を飾る効果は小さいものではない。

昔話に良寛さんのお話しがある。あるお屋敷に呼ばれて粗末な普段着で出掛けていったところ、門番に物乞いに間違えられて追い返された。そこで今度はきらびやかな立派な法衣を着て行ったところ、大変なもてなしようだった。

豪華なご馳走を出された良寛さんは、法衣をはずしてその前にご馳走を並べ、「あなたがご馳走したいのは、私ではなくこの法衣にでしょう」といったとか。

たしかに、品のよいスーツを着て高級車から降り立った人と、長靴に作業服を着て軽トラで乗り付けた人とでは、対応がちがう。接待する側としては大いに気をつけなくてはならないことだ。

しかし、外見を飾るということは、単に外側から見ている者の感じ方を変えるだけではない。実は衣装を身につけているその人の内側、つまり本人の心のあり方をも変えていることになるのではないだろうか。

飾り立てるのではなく、身だしなみを整えると言い換えたらどうだろう。厳粛な式典に正装で臨む。「自分は自分、人は人」ではなく、他への思いやりにより場に応じた形を表すことも必要なことだ。

同様に、仏は外見ではなく真心を受け止めて下さるとはいうが、仏前に詣でるとき、身形を改めることによっていっそう厳粛な気持ちになることも大切だ。